山と公園

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拝峰山(ぺボンサン)(拝峰山近隣公園)

東大門区の典農洞(ジョンノンドン)と徽慶洞(フィキョンドン)にかけて、ソウル市立大学校の裏側に位置した拝峰山(ぺボンサン)は、標高108mの高さで、散歩によい道として、長距離の散歩を楽しむ方々に人気が高い。開放されたソウルの景色が一目に入ってくるだけではなく、歴史的な裏面もある拝峰山(ぺボンサン)に登ってみよう。

拝峰山(ぺボンサン)物語
拝峰山(ぺボンサン)物語
拝峰山には永祐園(ヨンウウォン)と徽慶園(フィキョンウォン)の跡があることで知られているが、永祐園(ヨンウウォン)は、朝鮮正祖の父親である 思悼世子(サドセザ)のお墓で、徽慶園(フィキョンウォン)は正祖(ジョンゾ)の後宮で純祖(スンゾ)の実母だった綏嬪朴氏(スビン朴氏)のお墓である。
拝峰山という名前もこのような歴史的な背景から出たもので、正祖(ジョンゾ)が一生できなかった親孝行をすると毎日父親のお墓を向かって拝礼して、山の名前が‘拝峰山’となったという説がある。
それ以外にもここの山沿いに永祐園(ヨンウウォン)と徽慶園(フィキョンウォン)などの王室のお墓を作ることにより、道を通る人たちが頭を下げて通っていたので、拝峰と呼んだという説がある。また、山の形が都城を向かって御辞儀をする形に似ていると言われ、その名の由来となったという説もある。
散歩が楽しい拝峰山(ぺボンサン)
散歩が楽しい拝峰山(ぺボンサン)
東大門区には、拝峰山~踏十里近隣公園―中浪川の堤防が連結された7.2kmの東大門の緑地循環道がある。
32億ウォンを費やし、東大門区で作った緑地循環道は、道路を間に分かれた緑地空間を雲橋で連結し、拝峰山と踏十里近隣公園、下川緑地に沿って続く中浪川の土手道が連結されるように作られた道です 拝峰山から中浪川へ行こうとすると、拝峰山近隣公園で陸橋を利用して、ハンチョン路を渡るか、踏十里近隣公園から中浪川ジャンピョン橋方向の道に歩くと着く。拝峰山には、松の木をはじめ、各種の木が生茂っていて、拝峰山に作られた公園の森道を歩くと、閑寂した田舎の山を登っているような清涼感を感じられる。頂上に近い所には、冷たい水が流れ、乾いた喉を濡らしてくれる。衛生病院の向側には、野生花団地、生態池などがあって、自然学習の場として造成されているし、公園の所々には、バドミントンコートなど、各種の運動施設が設置されている。

中浪川(チュンランチョン)(中浪川体育公園)

漢江の第1支流である中浪川は、京畿道楊州市山谷洞の水落山(スラクサン)北の渓谷で発源し、南に流れながら道峰山(トボンサン)(716m)と水落山(スラクサン)(637m)の真ん中を流れ、北漢山(836m)で発源した牛耳川(ウィチョン)と合流した後、再び下流部の清渓川と合流し漢江本流に流入される。長さは36.5kmで、平均幅は8.61kmで、清渓川、牛耳川など13つの支流を持っている。

中浪川(チュンランチョン)の由来

昔、中浪川は、道峰洞付近では書院川と呼ばれ、野原と野原の間を流れる川という意味で、セッケ、セッカンとも呼ばれて、江に流れ込む川であるとも意味で、漢天(ハンチョン)、ハンネとも呼ばれた。
面牧洞(ミョンモットン)一帯ではチュンクァンゲとも呼ばれた。1911年日本政府により発行された京成部地図で中梁橋を中浪橋に表記しておいた以後、これに従い各種の文献に中浪川と表記し、現在の名前として定着するようになった。

中浪川の川辺に沿って体育公園が作られているが、快適な自然環境が一つになった中浪川は、散歩を楽しんだり、各種のスポーツを楽しむに相応しい。

  • 第1体育公園:長安洞ジャンピョン近隣公園前
  • 第2体育公園:長安洞三星来美安アパート前
  • 第3体育公園:徽慶洞警察捜査研究所前
  • 第4体育公園:徽慶洞中央線鉄橋の周辺
  • 第5体育公園:里門洞大宇アパート前(梨花橋の上流)
  • ☎ 2127-4842 · 2127-4842
  • 主な施設:自転車専用道路(5.6㎞)、バスケットボールコート、バドミントンコート、足球場、インラインスケート場など

清渓川(チョンゲチョン)

清渓川は漢江の第2支流として、仁王山(インワンサン)から発源してソウルの都城の中心部を東に流れ、城東区の沙斤洞(サグンドン)、松亭洞(ソンジョンドン)、聖水洞(ソンスドン)の境界で第1支流である中浪川と合流し、漢江に流れる長さ13.7kmの川である。
ソウル市の清渓川の復元事業が2003年7月から始まり、2005年10月1日に清渓川は、都心の中の下川として開通されたが、東大門区には清渓川の下流が通っている。清渓川の下流には各種の魚類と植物が自生していて、周辺を散歩する人々と観光客によい見ものを与えている。

清渓川(チョンゲチョン)の由来

清渓川は、都城の中、つまりソウル分地の水を溜めて西出東流するし、他に開川(ゲチョン)または、清風渓川とも呼ばれた。開川とは、朝鮮朝太宗の時、下川を整備し始め、英祖36(1760)年に20万名の人を動員し57日間、底を掘って砂を取り出し、下川を整ったが、その時、下川を開けたとの意味でそう呼ばれた。一説には、下川の整備を始めた太宗、世宗の時から開川と呼んだとも言う。

貞陵川(ジョンルンチョン)

貞陵川(ジョンルンチョン)は、城北区の貞陵洞(ジョンルンドン)の北岳山から発源し、洪陵と祭基洞を過ぎ、清渓川と会う長さ13.75kmの下川として、道峰区(トボン区)の彌阿洞(ミヤドン)から流れてきた月谷川(ウォルコッチョン)と合流し、洪陵(清涼里の近く、明成皇后(ミョンソンファンフ)の陵。1919年高宗がなくなり、今の場所である京畿道南揚州市金谷洞に天葬する)を通るので洪陵川とも呼ばれた。

貞陵川(ジョンルンチョン)の由来

貞陵川(ジョンルンチョン)という名は、朝鮮朝太祖(テゾ)の継妃である神徳王后(シントクワンフ)・姜氏のお墓が貞陵だった事からそのふうに呼ばれたが、貞陵は本々姜妃が死んだ後、太祖李成桂(イー・ソンゲ)の固執により都城の中、貞洞(今日の徳寿宮の近く)に安置されたが、太宗(テゾン)により、1,2次の王子の乱を経て、継妃姜氏のお墓を今日の貞陵谷間に移葬するようになった。